20代最後となったこの一年は、人生の中で最も劇的な変動の一年となった。それは、悟りを開いた、ということである。モラトリアムが終わった、ということでもある。
長い年月の果てに、ようやく私は、ブッダの考えを理解するに至った。ブッダの言葉で言うところの「世間における一切のものは虚妄である」、あるいは、般若心境で伝えられるところの「色即是空 空即是色」。知識では知っていたこれらのことを、実感として、悟った。
悟りとは、実際には、尊いものではなく、もちろん霊的なもの・非科学的なものでもなく、単なるパラダイムシフトに過ぎない。一方で、厄介なことに、ブッダのこの考えは、パラダイムシフトした瞬間に選択を迫られる類のものである。なぜならば、一切の執着を捨てると言うことは、生きるためのあらゆる欲求を放棄することであり、そのままでは死に至るのみであるからだ(このことはニーチェも示唆している)。生きるのであれば、自分の人生の使命を自ら定義し、「色即是空 空即是色」という概念の例外と定めなければならない。
ブッダも同じ選択を迫られ、「道徳的教義を軸とした宗教的社会システムを構築する」ことを自分の使命としたのであろう。本質的には、それは一種の「執着」である。しかし、仏教という枠組みが確立したおかげで、ブッダの後に続いて悟りを開いた僧は、「仏教という枠組みの中で悟りを開いた場合は、仏教の教義に従うという道徳的行為に関する欲求を例外として認める」というお墨付きを得ることができた。仏教が、その創設期から、出家・在家という制度を確立した意味もそこにある。在家のまま悟りを開いてしまうと、捨て去るものが多すぎて社会的に多大な悪影響を及ぼしてしまうし、悟りを開いた後は、まともに食い扶持を稼ぐことも困難になるので、ある程度、生活を保証するためにお布施をしてくれる人たちが必要になる。
もちろん、ブッダや弟子達にそこまでの認識があったかどうかは定かではない。気付かないとは思えないのだが、自然発生的に制度と教義が生まれたという可能性もある。
残念ながら、私は仏法僧に帰依し奉ってるわけでもないし、宗教という制約の中に自分を置くつもりもない。
結果的に、私もまたブッダと同じ選択を迫られることとなった。
私の人生の使命は、「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」であるとしている。それは、以下のような経緯による。
ちょうど10年前、私は「人間とは何か」というパラダイムシフトを経験した。その中で、人類が、脳の情報処理に関する生物的制約に縛られていることを知った。
人類は、身体的制約を突破する形で文明を進化させてきた。力が弱いのでテコを発明し、長年の改良の果てにパワーショベルとなった。足が遅いから馬車に乗り、長年の改良の果てに自動車となった。
脳の機能が生物的制約に捕らわれているならば、それを突破するべきなのだ。正確に言うと、いつしか人類は、その制約を突破することになる。私はそれを後押ししたいのだ。
脳の情報処理に関する制約とは何か。それは、人間とは何か、という命題の答えでもある。
人間とは、
「自らの利益が最大であること、もしくは自らの不利益が最小であることを、
脳の外部入力信号、および、内部入力信号に基づいて、
自動的に判断し、出力し、その過程と結果を記録していくだけの生物」
である。
人間は、機械的に入出力を行う、という制約に縛られている。(もちろん、仮説である。しかしながら、私が今、この文章を書いていることも、過去から現在に至るまでの膨大な入力に対する機械的な反応にすぎないことは、時間をかければ記述できるだろうと思う。ただし、時間をかけることは私にとって不利益なので、そのような行動(出力)は行わない。ご容赦いただきたい。)
ここでいう利益は、物質的なものではなく、脳内の情報に変換された上での快感・不快感を指す。個々人によって異なるものである。ある人にとっては、神の教えに従うことが何よりの報酬となるかもしれない。別のある人にとっては、お金を得ることが家族を失うことよりも優先されるかもしれない。一般的に「価値観」と呼ばれるものである。それは即ち、判断とその結果を学習した記憶の積み重ねである。
人間には機械的な要素以外存在しない、というこの考え方は、古くから示唆されている。私が直接的にパラダイムシフトを体験するきっかけとなったのは、マーク・トウェイン(サミュエル・クレメンズ)が著した『人間とは何か?』である。脳についての知識や、自分自身の脳の働きに照らして、『人間とは何か?』に書かれていたことを検証し、上述の解答を導くに至った。それが10年前のことである。
上述の「人間とは何か」という命題に対する解答は、仮説である。人類が制約を突破する後押しをするためには、まず、仮説を検証しなくてはならない。仮説を検証するためには、研究機関が必要である。単なる研究機関では、研究結果を、特定の組織だけに利する方向や、人類の発展を妨げる方向(例えば戦争など)に使われてしまうかもしれない。そのため、研究機関は、あらゆる組織から独立していることが望ましい。
以上のような経緯を経て、私の人生の使命は、「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」となったのである。
人類が制約を突破する手段は、いくつかあるだろうと考えている。
・ ブレインハックによって、自ら価値観を書き換える方法
・ 制約を、高度に計画された学習によって上回る方法
・ 遺伝子操作によって脳機能そのものを拡張する方法、
・ 外付けのハードウェアによる方法
最初の方法で、例えば、「価値観」として「色即是空 空即是色」を採用することもできるだろう。悟りを開くということは、ブレインハックによる価値観の書き換え、と見ることもできる。(みんながみんな悟りを開いてしまうと、社会が成立しなくなるだろうと思われるので、実際には「道徳的行為に対する価値観を増大させる」程度になるのではないか。それだけでも大きな成果と言える。宗教に頼る必要性が無くなるからである。)その意味で、「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」は、「色即是空 空即是色」という概念と、決して無関係ではない。
改めて「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」を自分の使命と定め、「色即是空 空即是色」の例外とする。
自分の使命を定めてから10年。私は逆走や停滞を繰り返してきた。逆走の最たるものが、ゲーム(特にネットゲーム)への依存であった。「なぜ使命に生きなきゃいけないのか」と停滞し、楽しいことばかりに熱中した。
今や、それらの執着は露と消えた。自らの使命のみに執着し、そのために生きることをはっきりと自覚した。
すべてがクリアに見える。
惜しむらくは、ここに至るまでに30年を費やしたことだ。私の時間はそれほど多く残っているとは言い難い。ただただ、全力で疾走するのみである。