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思索の軌跡 カテゴリの記事

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悟りを開いたという記事を書いてから、もう1年以上経つのに、未だに「悟りを開く方法」という検索ワードで検索してお越しになる方がいらっしゃるようなので、メモ。

  1. 悟りを開くのは難しくない
  2. 悟りを開く手順は不明
  3. 在家で悟りを開くのは辛い
  4. 心の平穏を得るのに、悟りを開く必要はない


1. 悟りを開くのは難しくない

「悟りを開く」という物々しい言葉と、仏教の神秘化のせいで、悟りを開くのが、どうも、貴く神秘的なことのように広まっていますが、そうではないです。単なるパラダイムシフトです。

パラダイムシフトというのは、例えば、「50年以上前の時代のビジネスマンがタイムマシーンで現代にやってきて、インターネットを体験したときに、その人の価値観が大きく変化すること」です。黒電話と書類の山と手紙のやり取りしか無い時代の人が、メールやwebで簡単に情報伝達や商取引ができるのを見て、実際に体験したら、価値観が一気に書き換えられることでしょう。同じように、「悟りを開く」というのは、「諸行無常」や「色即是空」といった価値観を、体験として自分に定着することです。知識として知るだけでなく、体感するところがポイントです。

そういうわけで、悟りを開くというのは、実際には価値観の変化だけですので、実は、悟りを開いた人というのは、数万人~数十万人という規模で存在していらっしゃるのではないでしょうか?


2. 悟りを開く手順は不明

とはいえ、私が何で悟りを開けたのか、その手順というのを、私自身がはっきりと知覚しているわけではありません。人によっても違うと思います。ブッダが、なぜ、直接的な「悟りの開き方の手順」を伝えなかったのか、というのは想像するしかありませんが、おそらく、万人に通用する「悟りの開き方の手順」というのが無いから、ではないでしょうか。

私が悟りを開けたのか考えるために、経緯を簡単に書くと、

  1. 子供の頃から「人間とは何か」をずっと考えていた
  2. 曾々祖父の兄が某宗派の管長だった縁で、幼少期、仏教の影響を強く受けた(大学に入る頃には、日本の仏教に疑問を抱いて、日本の仏教に帰依するのは辞めた)
  3. 子供の頃から「瞑想」をしていた。高校の時分には、瞑想の極地(白い光に包まれ、多幸感を味わう)に到達した
  4. 人工知能への興味から、ニューラルネットワークや大脳生理学など、人間の脳についての知識を増やしていった(大学でもロボット工学専攻)
  5. 高校でソフィーの世界に触れ、大学でも哲学の講義に出るなど、哲学的な知見を蓄えた
  6. マーク・トウェインの「人間とは何か」を読み、脳科学の知識と合わせて、自分なりの「人間とは何か」の答えを導き出した
  7. 自分の使命を定めたが、自分の使命と生き方について10年くらい悩む
といったことが影響しているようです。


これだけの要素では不十分で、私が悟りを開くきっかけになったのは、断食でした。正確に言うと、1日1000kcal未満の食事制限を10日くらい続けた後で瞑想してたら、悟りを開いてしまいました。食事制限は、別に悟りが開きたかったわけじゃなくて、ちょっと過酷なダイエットのつもりでした(非常に痩せにくい身体なもので、これくらいハードじゃないと痩せてくれない)。

やはり、断食(食事制限)というのは、悟りを開くトリガーとして必須なのかもしれません。確かに、性欲は我慢しようと思えば我慢できるし、睡眠欲については簡単に我慢できるものの不眠を継続することがそもそも難しく、残る食欲だけが、我慢するためには、人間の欲求と正面から見つめ合わなければなりませんからね。


3. 在家で悟りを開くのは辛い

在家の身で悟りを開くのは、止めた方が良いです。止めるべきです。詳しくは述べませんけれども、「色即是空」の「色」には、人を愛すること・家族を愛することも含まれます。新たな価値観(悟り後の価値観)では、それは当然のことで、自然なことなのですが、しかし、在家の生活は、古い価値観で成立しています。それは、「愛」というものが存在して、「愛」というものは尊い、という価値観です。俗世で生活するには、自分が古い価値観を持っているフリをするか、新しい価値観を忘れるか、のどちらかを選択しなければなりません。私は前者を選びましたが、価値観を偽るというのは、賢明ではありませんし、自然なことではありません。


4. 心の平穏を得るのに、悟りを開く必要はない

「悟りを開きたい」という方は、私の想像ですが、多分、「心の平穏を得たい」と思っていらっしゃるのではないでしょうか? それも一つの欲ですよ、というツッコミは置いておいて。確かに、悟りを開けば心の平穏は得られますが、しかし、心の平穏を得るのに、悟りを開く必要は必ずしもありません。「悟り」とは縁の薄い宗教であるキリスト教でも、「神の愛」に触れ、心の平穏を得たと伝えられる人は数多くいらっしゃいます。私の経験で言えば、瞑想の極地を体験したときは、心が晴れ渡るような心持ちがしました。あれも一種の心の平穏と言えるでしょう。

仏教でも、ブッダは、自然に生きるための心構えを数多く残しています。手軽に手に入るものでは、岩波文庫から「ブッダのことば」という本が出ています。神秘化するために分かりにくくなった仏教の教典と違い、分かりやすい言葉で「生き方」を説いていて、学ぶところも多いと思います。また、日本の仏教も、俗世での生き方を説く技術を千数百年もの間、蓄積してきました。人に何かを伝えるのが下手くそな私の文章を読むよりも、お寺に行って和尚さんの話を聞いた方が、何倍も得るものが多いような気がいたします。

私のオススメは、とにかく瞑想すること。瞑想というのは技術です。何度も瞑想しているうちに、「感覚を解き放つ」(脳科学的に言えば、身体感覚入力の一時的な低下)ことや、「瞑想の極地」(血液中の二酸化炭素濃度増加による脳の酸欠と神経伝達物質の過剰分泌、それによる幻覚)に到達することができるようになります。ヨーガの呼吸法も、瞑想の技術を高めるのに役に立つでしょう。


私の拙い文章と経験が、何かの役に立てれば幸いです。

ときどき思い出さないと、スポーンと抜けてしまうような性能の悪い脳味噌の持ち主なので、メモ。


悟りを開くと、生への執着も消え、そのままだと死んでしまう。死を回避するための考え方としては、以下の3つがある。


1. 自然に生きる

ブッダの解。「色即是空」という言葉にさえ執着するのをやめる。自然に食べ、自然に眠り、自然に生き、自然に死ぬ。

ただ、「自然に生きる」と言葉で定義した時点で言葉に捕らわれている、とも言える。想起した時点で、概念に捕らわれている。その意味で、2番に含まれる、と言えるかもしれない。


2. 「規範に従って生きること」を例外とする

「規範」を「道徳」に言い替えても良い。「道徳は宗教に通じる」を適用して、「規範」を「神」に言い替えても良い。キリストや、諸々の宗教での解。

「自分の使命に生きること」を例外とした、以前の俺の解でもあった。


3. 悟りを開く上での仮定を検証するために生きる

2番の解に納得できなくなったときのセーフティとして考え出した解。悟りとは、「すべてのものは空である」と理解することであるが、空である「すべてのもの」は、この宇宙に限定される。なぜならば、それが人間の認識できる限界だからである。もしかしたら、この宇宙を誕生させた別の宇宙、もしくは時空間、もしくは次元を超えた何か、では、「すべてのものは空」ではないかもしれない。万物は流転していないかもしれない。仮定が検証されるまでは悟ったことにならない。

仮定を検証するためには人類のさらなる発展、進化が必要になる。そのために生きることは、悟りを開くことと矛盾しない。

この宇宙の外側の、さらに外側の、・・・とか続けていくと、延々と終わらなさそうなのも好都合である。


4. 悟りを忘れる

川を渡り、彼岸を見て、納得して、また川を戻ってきて、今まで通りの生活を送ることもできるかもしれない。また、どうせ空なら何をやってもいいじゃん、という考え方もできる。ただ、最終的には、精神が保たないんじゃないかと思う。

ダイエット中に、「今日だけ特別」「今日は頑張ったからプリンを食べてもOK」などという「例外」を設けてはいけないのは、満足の閾値が上がってしまうからである。

つつましい食事の中に満足を見いだすのがダイエットの真髄である。例外的な食事で、高い水準で満足を覚えると、一時的にせよ、満足の閾値が上がる。自分にとってより良い環境を求め続ける生物としての反応であり、意図しない限り、閾値の上昇は自然に起こる。結果として、つつましい食事では満足できなくなり、食事以外の代償行動に走らない限り、ダイエットは破綻する。

満足の閾値という概念は、何もダイエットに限って適用されることではない。都市化は、人と人の交流を活発にすることで、羨望や嫉妬を起爆剤として満足の閾値を底上げし、社会全体の経済発展を加速させていると言える。逆に、満足の閾値を下限に固定することが「悟りを開く」ことだとも言える。


「満足の閾値」という言葉が我ながら気に入ったのでメモ。

20代最後となったこの一年は、人生の中で最も劇的な変動の一年となった。それは、悟りを開いた、ということである。モラトリアムが終わった、ということでもある。


長い年月の果てに、ようやく私は、ブッダの考えを理解するに至った。ブッダの言葉で言うところの「世間における一切のものは虚妄である」、あるいは、般若心境で伝えられるところの「色即是空 空即是色」。知識では知っていたこれらのことを、実感として、悟った。

悟りとは、実際には、尊いものではなく、もちろん霊的なもの・非科学的なものでもなく、単なるパラダイムシフトに過ぎない。一方で、厄介なことに、ブッダのこの考えは、パラダイムシフトした瞬間に選択を迫られる類のものである。なぜならば、一切の執着を捨てると言うことは、生きるためのあらゆる欲求を放棄することであり、そのままでは死に至るのみであるからだ(このことはニーチェも示唆している)。生きるのであれば、自分の人生の使命を自ら定義し、「色即是空 空即是色」という概念の例外と定めなければならない。


ブッダも同じ選択を迫られ、「道徳的教義を軸とした宗教的社会システムを構築する」ことを自分の使命としたのであろう。本質的には、それは一種の「執着」である。しかし、仏教という枠組みが確立したおかげで、ブッダの後に続いて悟りを開いた僧は、「仏教という枠組みの中で悟りを開いた場合は、仏教の教義に従うという道徳的行為に関する欲求を例外として認める」というお墨付きを得ることができた。仏教が、その創設期から、出家・在家という制度を確立した意味もそこにある。在家のまま悟りを開いてしまうと、捨て去るものが多すぎて社会的に多大な悪影響を及ぼしてしまうし、悟りを開いた後は、まともに食い扶持を稼ぐことも困難になるので、ある程度、生活を保証するためにお布施をしてくれる人たちが必要になる。

もちろん、ブッダや弟子達にそこまでの認識があったかどうかは定かではない。気付かないとは思えないのだが、自然発生的に制度と教義が生まれたという可能性もある。


残念ながら、私は仏法僧に帰依し奉ってるわけでもないし、宗教という制約の中に自分を置くつもりもない。

結果的に、私もまたブッダと同じ選択を迫られることとなった。


私の人生の使命は、「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」であるとしている。それは、以下のような経緯による。

ちょうど10年前、私は「人間とは何か」というパラダイムシフトを経験した。その中で、人類が、脳の情報処理に関する生物的制約に縛られていることを知った。

人類は、身体的制約を突破する形で文明を進化させてきた。力が弱いのでテコを発明し、長年の改良の果てにパワーショベルとなった。足が遅いから馬車に乗り、長年の改良の果てに自動車となった。

脳の機能が生物的制約に捕らわれているならば、それを突破するべきなのだ。正確に言うと、いつしか人類は、その制約を突破することになる。私はそれを後押ししたいのだ。


脳の情報処理に関する制約とは何か。それは、人間とは何か、という命題の答えでもある。

人間とは、
「自らの利益が最大であること、もしくは自らの不利益が最小であることを、
脳の外部入力信号、および、内部入力信号に基づいて、
自動的に判断し、出力し、その過程と結果を記録していくだけの生物」
である。

人間は、機械的に入出力を行う、という制約に縛られている。(もちろん、仮説である。しかしながら、私が今、この文章を書いていることも、過去から現在に至るまでの膨大な入力に対する機械的な反応にすぎないことは、時間をかければ記述できるだろうと思う。ただし、時間をかけることは私にとって不利益なので、そのような行動(出力)は行わない。ご容赦いただきたい。)

ここでいう利益は、物質的なものではなく、脳内の情報に変換された上での快感・不快感を指す。個々人によって異なるものである。ある人にとっては、神の教えに従うことが何よりの報酬となるかもしれない。別のある人にとっては、お金を得ることが家族を失うことよりも優先されるかもしれない。一般的に「価値観」と呼ばれるものである。それは即ち、判断とその結果を学習した記憶の積み重ねである。

人間には機械的な要素以外存在しない、というこの考え方は、古くから示唆されている。私が直接的にパラダイムシフトを体験するきっかけとなったのは、マーク・トウェイン(サミュエル・クレメンズ)が著した『人間とは何か?』である。脳についての知識や、自分自身の脳の働きに照らして、『人間とは何か?』に書かれていたことを検証し、上述の解答を導くに至った。それが10年前のことである。

上述の「人間とは何か」という命題に対する解答は、仮説である。人類が制約を突破する後押しをするためには、まず、仮説を検証しなくてはならない。仮説を検証するためには、研究機関が必要である。単なる研究機関では、研究結果を、特定の組織だけに利する方向や、人類の発展を妨げる方向(例えば戦争など)に使われてしまうかもしれない。そのため、研究機関は、あらゆる組織から独立していることが望ましい。

以上のような経緯を経て、私の人生の使命は、「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」となったのである。


人類が制約を突破する手段は、いくつかあるだろうと考えている。
 ・ ブレインハックによって、自ら価値観を書き換える方法
 ・ 制約を、高度に計画された学習によって上回る方法
 ・ 遺伝子操作によって脳機能そのものを拡張する方法、
 ・ 外付けのハードウェアによる方法

最初の方法で、例えば、「価値観」として「色即是空 空即是色」を採用することもできるだろう。悟りを開くということは、ブレインハックによる価値観の書き換え、と見ることもできる。(みんながみんな悟りを開いてしまうと、社会が成立しなくなるだろうと思われるので、実際には「道徳的行為に対する価値観を増大させる」程度になるのではないか。それだけでも大きな成果と言える。宗教に頼る必要性が無くなるからである。)その意味で、「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」は、「色即是空 空即是色」という概念と、決して無関係ではない。

改めて「人間を研究対象とする独立した研究機関を設立すること」を自分の使命と定め、「色即是空 空即是色」の例外とする。


自分の使命を定めてから10年。私は逆走や停滞を繰り返してきた。逆走の最たるものが、ゲーム(特にネットゲーム)への依存であった。「なぜ使命に生きなきゃいけないのか」と停滞し、楽しいことばかりに熱中した。

今や、それらの執着は露と消えた。自らの使命のみに執着し、そのために生きることをはっきりと自覚した。

すべてがクリアに見える。


惜しむらくは、ここに至るまでに30年を費やしたことだ。私の時間はそれほど多く残っているとは言い難い。ただただ、全力で疾走するのみである。


思い付いたままにメモ。自分用。正確性は保証しない。あと、読んでも面白くないと思う。


ニーチェもブッダも、ともにこの世の物質的なもの、物質に起因する精神的なものすべてが、一時的であることを知った。(日本に伝わっている)仏教で言うところの、万物流転、もしくは諸行無常、色即是空 空即是色。

一方で、両者とも、そのままでは人間には生きる意味がないことにも気が付いた。いずれ消えるのと、今消えることに違いはない。

ニーチェは、人間は生きる意味を見いださずには生きては居られない、という点までは到達した。最終的に、彼は狂気に捕らわれた。

ブッダは、人間の生きる意義を、道徳的な観念に求めた。仏教僧に帰依するという道徳的行為。また、仏としての道(生き方)を伝えることにも意義を見いださせた。

カントが、道徳は宗教へと至る、と言ったように、仏教僧に帰依するという道徳的観念のみでは、教えを伝えるのに(すなわち宗教として)不十分で、結局は、輪廻転生という宗教的概念や、土着の神々を巻き込んで宗教となった。


という仮説。


カントの定説を破ることが僕の生きる意味なんだろうなあ、と改めて思ったのでメモ。

■自分で考える前にググっていませんか? - Life is beautiful
http://satoshi.blogs.com/life/2008/06/post-2.html

大学生にレポート課題を出したら同じようなものが返ってきて、調べたら、ググった結果だったという話。短期的効率重視の会社(周りの人を煩わせず、一人で悩まず、ググって答えが出るならそれでいい、考える必要なんてない、時間の無駄だ、などという会社)にとっては有望な人材なのかもしれません。

そのうち、採用も、それ系のSNSをググって見繕って、とかそんな時代になったりしてw
SEOテクニックが就職希望者の間で流行したりw
# 履歴書の書き方テクニックとあんまり変わらないか。


思考停止というのは、とても楽なんですよね。考えるというのはエネルギーを消費するだけあって煩わしい。煩わしいこと、つまり不便なことを代わってくれるgoogleは、その意味で文明なわけですが、考え続けることが文明の本質であるなら、考えることを代替するgoogleは文明の持続的発展を阻害している、と。

ふーむ。

僕は今のところ、そこまでの心配はないと考えます。思考を停止しているだけで、思考の仕方を知らないわけではないからです。ペーパードライバーみたいなものです。

それよりも僕が恐れているのは、思考の仕方を学ぶべき小学校や中学校で、思考停止がまかり通らないか、ということです。つまり、先生もググる、生徒もググる。問題と解答の間に、思考というプロセスが入らずに、ググるというプロセスが入る。そんな状況を恐れています。

将来先生になるかもしれない大学生に注意すべきとすれば、その点かなと思います。


個人的には、ググれるところはとことんググって、思考停止の果てに、人間の仕事は、芸術とかエンターテイメントとかコミュニケーションとか、創造性を必要とするものだけになる社会も面白いな、とは思いますw


あと、中世で確かにヨーロッパでの文明爆発は止まりましたけど、キリスト教の保護の下、文明は維持していました(キリスト教のおかげで地動説が普及しました)し、ヨーロッパの代わりにイスラムでの文明が発展したというのも、忘れてはならないと思います。google教の勢力圏外というのがあるのかどうかわかりませんが。

一部方面で嫌儲の話題が持ち上がっていたり、個人的にも無料サービスというものに違和感を感じているので、ここで一度、改めて無料サービスとは何かを考えてみようと思いました。


無料サービスの分類

1. 宣伝としての無料サービス

無料サービスや無料コンテンツ(以下、まとめて無料サービス)というのは、何もインターネットとともに始まったわけではありません。昔から、無料のサービスやコンテンツというものは広く一般的に行われてきたように思います。そのひとつが、宣伝としての無料サービスです。

例えば、スーパーやデパ地下の試食販売。缶飲料の新製品の販促に、少量の缶を作って街頭で配っていたりします。缶の方が高そうですが。

それから、新しく店を開くときに餅をまく、ということがあります。宗教的意味合いも強いのでしょうが、どうぞご贔屓に、という意味合いも多分にあるんじゃないかと思います。


2. 儀礼的・宗教的な無料サービス

封建的社会制度の中で、強者は弱者に施しをしなければならない、という儀礼的規範が生まれた国がありました。現在でも、寄付大国アメリカでは、お金持ちは貧乏人を助けなければならないという意識が根付いていると言われます。根底にはキリスト教的な考え方があるのでしょう。

日本でも、神社での餅まき、振る舞い酒などが宗教的な無料サービスでしょうか。僕の地元だけかもしれませんが、お通夜の宴会は、近所の人も招いて大々的な宴会にする、ということもあります(大往生の場合に限るみたいです)。もちろん、お金は地域コミュニティを通じて、結局は流れ回ることになるんでしょうが、何より、みんな笑顔で死者を送り出すために大盤振る舞いをするわけです。

また、日本では、上に立つ者は気前が良くなくてはならない、というような規範もあるような気がします。一種の宣伝でもあると思いますが、「上司のおごり」であるとか、「会社のおごり」であるとか、「自由に使えるタクシーチケット」であるとか、気前の良さが美徳とされているわけです。

三浦健太郎先生がタダで描いたというのも、これに該当すると思われます。日本人としての気前の良さなわけです(今さら宣伝じゃないですよね?)。


3. ビジネスモデルとしての無料サービス

Googleのサービス群や、テレビ放送がこれに当たります。サービスの消費者がお金を払っているわけではないのに、誰も損をしていないという仕組みです。

この仕組みを支えている重要な前提条件が2つあります。
 ・広告とセットになっていること(アフィリエイトを含む)
 ・サービスの消費者が、マスであること

広告とセットになっていなければ、無料サービスは成り立ちません。それ以外に収入を得ている仕組みを僕は知りません。世界中の人々が血眼になって、別な仕組みを求めていることろだと思います。

また、広告の性質上、ある程度の規模以上ではないと収入が生まれません。規模を大きくするために、サービスの質が良くなくてはならない、という制約が発生するということでもあります。

日本のテレビ放送からスポンサーが離れていると騒がれていますが、規模が縮小した(=視聴率が低下した)のと、サービスの質(=コンテンツの質)が落ちたということです。そして、スポンサーが離れて収入が減ると、さらにサービスの質を下げざるを得ないという悪循環に陥る危険性があります。

興味深いことに、「ビジネスモデルとしての無料サービス」は、貨幣を介在していないだけで、ビジネスとしては消費者を巻き込んで成立していると僕は考えます。つまり、消費者としては、広告を見た心象影響という形で対価を払っている、ということです。心象影響がツボった消費者は、その商品を購入することで、対価を払っているわけです。一人当たりの対価があまりに小さいので、無料という錯覚に陥ってしまいますし、消費者がマスでないとビジネスモデルが成り立たないと言うことの根源でもあります。

マス向けにしかビジネスモデルが成立しないと言うことは、サービス提供者にもかなりの規模が要求されます。大規模な会社でないと無料サービスを行えないということです。消費者は、同じ品質であれば、より低価格な方を選ぶので、ある種の囲い込み、独占状態が発生しやすいとも言えます。Google、Yahoo!に、外に追いやられた格好のMSNが、その良い例かもしれません。


身銭を切っている無料サービス

ビジネスモデルとしての無料サービスで、必須条件を満たしていないサービスは、ほとんどが身銭を切っている無料サービスに該当すると思います。

例えば、ほとんどのブロガー。僕もそうですが、広告やアフィリエイトを貼っていても、まともな収益にはなりません。一日2時間、ブログに費やしたとして、月5000円の収入では、時給は83円にしかなりません。

ニコニコ動画も、また「身銭を切る無料サービス」だと僕は思っています。大量のトラフィックを捌くためのサーバを維持するだけでニワンゴは赤字でやってきたと思いますし、匿名でコンテンツを「うp」した人たちも、ニワンゴや消費者から何かビジネス的な(貨幣的な)対価を貰ったわけではない。

ただ、誤解しないでいただきたいのは、「身銭を切る無料サービス」が悪いことだとは僕は思っていないということです。自分で何かを作り出して、それを世に送り出し、コメントを付けて貰えるというのは大変嬉しいことです。それが賞賛コメントだったらなおさらです。まさに「お金で買えない価値」です。

それでも、身銭を切るというのは、多少の痛みを伴うものです。ある程度の豊かさがないと実現できないものです。逆に言えば、ある程度の豊かさがあるならどんどんやればいい。気前の良さを示すときです。


無料に慣れた消費者

インターネット界隈では、身銭を切った無料サービスが多くあります。それを可能にしているのは、(投資資金が集まっているという点で)社会の豊かさと言えるのかもしれませんが、それはともかく、消費者はあまりに無料サービスに慣れすぎてしまいました。

現状を打破する3つの方向性として
・消費者の、サービスプロバイダーへの転向
・無料サービスを実現可能な新しいビジネスモデルの探求
・低価格有料サービスを実現する課金基盤
というのを考えていましたが、頭が割れるように痛いので後日改めて。

■数ヶ月間日雇いだけで生活していたことがある。あの空間は異常だった。
http://anond.hatelabo.jp/20080617032448

教育が鍵になっている点は同意。ただ、そういった労働者を作り出すような教育であったのも事実だと思われる。「善く働き善く消費する、資本主義に従順な労働者を作り出すのが資本主義国家の教育」っていう指針に沿っていたのが、戦後の日本の教育だったんじゃないかなあ。

国家の(というか日本の)存続のための教育って考えると、上述のような「善き労働者」を生み出す教育と、もう一つ「知的資源」を生み出す教育の二つが考えられる。戦後、日本をここまでの国に押し上げた人々には本当に頭の下がる思いだし、それを支えたのが「善き労働者」教育であったのは間違いないと思う。

とはいえ、善き労働者教育体制が続くのは、せいぜい50年だったっていうことじゃないだろうか。本格的に知的資源を生み出す教育にシフトしなきゃいけないのに、安い労働力を求めるが故にその動きが止まっているように見える。

というのが、国家から見た教育の考え方。


人間が人間として幸せに暮らせるための教育、っていうのがあってもいい、というのが僕の考え。そのためには、幸せとは何か、ということに結論を出さなきゃいけなくて、そのために僕は頑張ってるわけだけど。

日雇いで働いて、そのお金をタバコとパチンコと風俗に費やして。元記事でも指摘されているように、本人は、実は幸せに感じている部分もあるんじゃないかと思うんだけど、生存権とか居住権とか権利の話は抜きにして考えたとして、それでも本当に幸せなんだろうか?

幸せとは何だろうか?
なぜ人間は、人間らしく幸せに生きなければならないのだろうか?

某国のように、国家的に覚醒剤を作って、国民に行き渡るようになったら、国民は幸せなんだろうか。それはタバコやパチンコや風俗と、何が違うんだろうか。


# 家庭を持つって言うのは、何事にも代え難い幸せで、人間らしい幸せのひとつだよね、きっと。

3日ばかり、回転の遅い脳みそをグルグル回して出た結論のまとめのメモ。


・文字の体系化

 文字の発明だけでは不十分。ある程度のコミュニティで継続的に用いられることができる
くらいには体系化されている必要がある。
 文字が体系化されると、それまで、発生しては失われていたテクノロジーが、人に依存せず
残るようになる。技術の積み重ねによる文明、を担保する。
 さらに、文字が広く普及するようになると、人々の意識構造にも変化が現れる。とはいえ、
これはかなり後になってからだと思われる。


・テクノロジーの大量消費

 典型的な例が戦争。冶金技術や、農耕技術を、いかんなく浪費することで、さらなる
進歩を引き起こした。
 もう一つの例は建築。なんでまあ、昔の人は、巨大な石造りの構造物を好むのだろう。
・・・ま、現代人もあまり変わらないか。


・都市化と人口の急増

 因果関係は逆かもしれない(文明が発達したから人口が増えた)。
 一方で、都市化と人口の急増が、戦争の要因となって、文明の爆発の要因になるのも
確かなように思える。


これらの要因が、文明の誕生から爆発までの6000年間に起こらなかったのかは、
やはり分からず。

ゆっくり、徐々に積み重ねていったのかなあ。
前4000年から前500年も、あんまり急いでる感じもしない。
そういうことを言い出すと、中世ヨーロッパも、のんびりしていた感じ。

宇宙開発が一段落したら、また1000年くらいのんびりするのかな。
アシモフのファウンデーションみたいな。

-- 追記

思ったこと。ヒエラルキーの上の人たちが、神の意志を重視する姿勢から、
人の意志(つまりは自分自身の欲求)を重視する姿勢へと転換していったことで、
必要以上の戦争が起こり、技術の浪費が大きくなり、文明が発達したというのはどうか。
つまり、競争が文明を発達させる要因となる、と。

ルネサンス以降、ここ数百年の文明の爆発は、植民地主義、重商主義、帝国主義、
民主主義、覇権主義、自由主義、資本主義、新自由主義といった、
政治的経済的競争の結果だと言えるかもしれない。
興味深いのは、経済的な規模と、人口と、文明の発達度合いが、正の相関関係にある
ように見えることである。
さらに踏み込めば、競争を否定するような主義や思想は、総体的に否定されている
ようにも見える(結果的に、経済や文明の停滞を悪と見る向きに繋がる)。
新たに主義主張を展開するときは、競争を内包するように注意しなければならない。


当たり前の結論になってしまいましたが、背景が定まったような気がするので満足です。

古代人の心は、神の声を聞く心と、それに従う心に分かれていた、などと、
ウィキペディアンが言うので、古代文明というのは、なんというか、薬でキメて、
幻聴の赴くままに行動するアレゲな人々が徘徊するような、
かなりカオスなものなのかと想像して、いやいやいやいや、無いだろ、とか思ったので、
原典に当たることにしました。

■二分心 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%88%86%E5%BF%83

で、『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』が届いたんですが、
あまりの厚さに読む気ダウンw

ペラペラ読み飛ばして分かったのは、二分心を持っていたのは、ヒエラルキーの上の人たち
ということのようです。

うーむ、それは別に、意識の発達と無関係と言っても筋は通るんじゃないかな。
そういう神の声を聞くことに秀でた人を祭り上げた(政り上げた)だけの気もする。
(社会全体の意志決定を行うには意志の弱い人々が、自分たちの意志決定機関として)

で、さらにいうと、それって別に、意志が発達したはずの現代人でも同じなんじゃないの?
っていう。
流れること水のごとし。


とはいえ、現代人的な意志を持った人々でも、古代文明の社会を形成することが可能だと
思うっていうだけで、実際のところ、二分心のような意識を持った人がいたかどうか、
可能性としてあるかどうかは、分からないんですけどね。

僕が、二分心を認識する術がない以上、それについて議論することには
(僕にとって)意味がないという。


# と思ったら、原著は1976年なんですね。
# とっくに議論はしつくされたという状況なんでしょうか。


## で、結局、二分心を持った人々がいたから文明が発達した、という理由では、
## 約6000年の停滞が説明できないわけで、ふりだしに戻る。











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