悟りを開いたという記事を書いてから、もう1年以上経つのに、未だに「悟りを開く方法」という検索ワードで検索してお越しになる方がいらっしゃるようなので、メモ。
1. 悟りを開くのは難しくない
2. 悟りを開く手順は不明
3. 在家で悟りを開くのは辛い
4. 心の平穏を得るのに、悟りを開く必要はない
1. 悟りを開くのは難しくない
「悟りを開く」という物々しい言葉と、仏教の神秘化のせいで、悟りを開くのが、どうも、貴く神秘的なことのように広まっていますが、そうではないです。単なるパラダイムシフトです。
パラダイムシフトというのは、例えば、「50年以上前の時代のビジネスマンがタイムマシーンで現代にやってきて、インターネットを体験したときに、その人の価値観が大きく変化すること」です。黒電話と書類の山と手紙のやり取りしか無い時代の人が、メールやwebで簡単に情報伝達や商取引ができるのを見て、実際に体験したら、価値観が一気に書き換えられることでしょう。同じように、「悟りを開く」というのは、「諸行無常」や「色即是空」といった価値観を、体験として自分に定着することです。知識として知るだけでなく、体感するところがポイントです。
そういうわけで、悟りを開くというのは、実際には価値観の変化だけですので、実は、悟りを開いた人というのは、数万人~数十万人という規模で存在していらっしゃるのではないでしょうか?
2. 悟りを開く手順は不明
とはいえ、私が何で悟りを開けたのか、その手順というのを、私自身がはっきりと知覚しているわけではありません。人によっても違うと思います。ブッダが、なぜ、直接的な「悟りの開き方の手順」を伝えなかったのか、というのは想像するしかありませんが、おそらく、万人に通用する「悟りの開き方の手順」というのが無いから、ではないでしょうか。
私が悟りを開けたのか考えるために、経緯を簡単に書くと、
- 子供の頃から「人間とは何か」をずっと考えていた
- 曾々祖父の兄が某宗派の管長だった縁で、幼少期、仏教の影響を強く受けた(大学に入る頃には、日本の仏教に疑問を抱いて、日本の仏教に帰依するのは辞めた)
- 子供の頃から「瞑想」をしていた。高校の時分には、瞑想の極地(白い光に包まれ、多幸感を味わう)に到達した
- 人工知能への興味から、ニューラルネットワークや大脳生理学など、人間の脳についての知識を増やしていった(大学でもロボット工学専攻)
- 高校でソフィーの世界に触れ、大学でも哲学の講義に出るなど、哲学的な知見を蓄えた
- マーク・トウェインの「人間とは何か」を読み、脳科学の知識と合わせて、自分なりの「人間とは何か」の答えを導き出した
- 自分の使命を定めたが、自分の使命と生き方について10年くらい悩む
これだけの要素では不十分で、私が悟りを開くきっかけになったのは、断食でした。正確に言うと、1日1000kcal未満の食事制限を10日くらい続けた後で瞑想してたら、悟りを開いてしまいました。食事制限は、別に悟りが開きたかったわけじゃなくて、ちょっと過酷なダイエットのつもりでした(非常に痩せにくい身体なもので、これくらいハードじゃないと痩せてくれない)。
やはり、断食(食事制限)というのは、悟りを開くトリガーとして必須なのかもしれません。確かに、性欲は我慢しようと思えば我慢できるし、睡眠欲については簡単に我慢できるものの不眠を継続することがそもそも難しく、残る食欲だけが、我慢するためには、人間の欲求と正面から見つめ合わなければなりませんからね。
3. 在家で悟りを開くのは辛い
在家の身で悟りを開くのは、止めた方が良いです。止めるべきです。詳しくは述べませんけれども、「色即是空」の「色」には、人を愛すること・家族を愛することも含まれます。新たな価値観(悟り後の価値観)では、それは当然のことで、自然なことなのですが、しかし、在家の生活は、古い価値観で成立しています。それは、「愛」というものが存在して、「愛」というものは尊い、という価値観です。俗世で生活するには、自分が古い価値観を持っているフリをするか、新しい価値観を忘れるか、のどちらかを選択しなければなりません。私は前者を選びましたが、価値観を偽るというのは、賢明ではありませんし、自然なことではありません。
4. 心の平穏を得るのに、悟りを開く必要はない
「悟りを開きたい」という方は、私の想像ですが、多分、「心の平穏を得たい」と思っていらっしゃるのではないでしょうか? それも一つの欲ですよ、というツッコミは置いておいて。確かに、悟りを開けば心の平穏は得られますが、しかし、心の平穏を得るのに、悟りを開く必要は必ずしもありません。「悟り」とは縁の薄い宗教であるキリスト教でも、「神の愛」に触れ、心の平穏を得たと伝えられる人は数多くいらっしゃいます。私の経験で言えば、瞑想の極地を体験したときは、心が晴れ渡るような心持ちがしました。あれも一種の心の平穏と言えるでしょう。
仏教でも、ブッダは、自然に生きるための心構えを数多く残しています。手軽に手に入るものでは、岩波文庫から「ブッダのことば」という本が出ています。神秘化するために分かりにくくなった仏教の教典と違い、分かりやすい言葉で「生き方」を説いていて、学ぶところも多いと思います。また、日本の仏教も、俗世での生き方を説く技術を千数百年もの間、蓄積してきました。人に何かを伝えるのが下手くそな私の文章を読むよりも、お寺に行って和尚さんの話を聞いた方が、何倍も得るものが多いような気がいたします。
私のオススメは、とにかく瞑想すること。瞑想というのは技術です。何度も瞑想しているうちに、「感覚を解き放つ」(脳科学的に言えば、身体感覚入力の一時的な低下)ことや、「瞑想の極地」(血液中の二酸化炭素濃度増加による脳の酸欠と神経伝達物質の過剰分泌、それによる幻覚)に到達することができるようになります。ヨーガの呼吸法も、瞑想の技術を高めるのに役に立つでしょう。
私の拙い文章と経験が、何かの役に立てれば幸いです。
お若いのに素晴らしいです。
貴殿であれば3つあるといわれる目覚めの残り2つも完成
できるのではないかと、他人ながら期待してしまいます。
つい最近まで、フーマン・エマミという名のとてつもない覚者
がいらしたのをご存知でしょうか。機会があれば調べてみて
ください。
それとぜひ、貴殿が毎秒呼吸されている空気が
普遍的なものではなく人間を含めた地球の生命達が
生かしている物だという事実と、
それを一瞬の暇もなく無意識に搾取する一人間としての
義務とをお考えいただき、その上で生命エネルギーを
ご自由に使っていただきたいと願ってやみません。
連投すみません、先ほどの者です。
是非これを読んで、感想を持ってみてください。
http://now.ohah.net/earth/2.shtml?osho/osho2.html
oshoという覚者がクリシュナムルティという覚者の遺した言葉を
友人達に解説しているものなのですが、これは私がブッダ達に
感じていた違和感を明らかにしてくれたとても崇高な洞察だと
思えます。人間である限り、私と同じく世界の人々は
こういう覚醒を求めているのではないかと思うのです。
通りすがりのお勉強中さま、コメントありがとうございます。
クリシュナムルティという人や考え方を今まで知らなかったのですが、全く同じことを考えている人がいたというのは、とても心強く思います。私が自分に定めた使命は『人間を研究対象とする研究機関を作ること』なのですが、それは、「人間とは何か」「精神とは何か」を追求することが、クリシュナムルティの言う「個人の革命」や、通りすがりさんの仰る「人々が求める覚醒」に繋がるだろうと考えているからです。
とても参考になるコメント、ありがとうございました。フーマン・エマミとジドゥ・クリシュナムルティの著書を読んで考えを深めていきたいと思います。
ばばたかさん、この記事を読んで参考にさせてもらっています。
しかし、同時に疑問がもっと湧いてきました。
まず、「断食と瞑想が悟りをひらくきっかけとなった」とありますが、そうなると、なんらかの持病をもって、一生涯投薬を続けなければならないひとたちは悟りを開けないのではないでしょうか?
また、欲とはいえ「心の平安を得たい」というのを「半永久的に得たい」とか「死ぬまで得たい」ということだったら、やっぱり「悟りを得ること」が回避できない話となるのではないでしょうか。
そういう意味では「持病を持っている人は悟りを開けず、心の安定を持続できずに不確定な来世を待つしか無い」という結論に至ってしまうのですが、ばばたかさんはどうお思いでしようか。
岩波文庫の「ブッダのことば」や多々存在しているお坊さんたちの言葉を吟味して「生涯治らない病人であっても得られる悟りへの道」を探し出すヒントとするのは悪いことではありませんが、ばばたかさんの「悟りを開く方法」では大多数の人々を切り捨ててしまう可能性があることを考慮してください。
長文をお読み下さり誠にありがとうございます。
匿名希望さま、コメントありがとうございます。
3点、私の考えを述べます。
第一に、「持病で一生涯投薬を続けなければならない人」に対して、私は、悟りを開くことを勧めません。
治療を続ける方には、愛するご家族や大切な何かがおありになって、生きることを願うのでしょう。それは、俗世の価値観では、とても普通で常識的なことです。「良いこと」「強いこと」と賞賛されることもあります。
悟りを開くと、それらの価値観が変わります。生への執着が無くなります。当人は悟りを開いて至福な状態ですが、周りの「大切な人々」にとっては、当人の変化は、「幸せ」なことばかりではございません。
第二に、「死ぬまでの心の平安は、悟りを開くことでしか得られない」というのは誤りです。「死の恐怖を克服すること」は、宗教の目標のひとつです。多くの宗教で、信者の生と死に関する悩みを受け止める技術が受け継がれています。
宗教に頼らずとも、瞑想は、心の平穏を得るのに効果的な方法です。毎朝、1時間でも時間を作って瞑想すると、それだけで心に芯を置けるようになるものです。生涯続けられることでもあります。
第三に、本文にも書きましたが、私の取った方法は、あくまで、私にしか有効ではありません。匿名希望さまは「大多数の人を切り捨てる」とお書きになりましたが、私の方法では、私以外の全ての人は悟りを開けません。なぜなら、私は私以外の人ではないからです。悟りを開くためには、どんな人であれ、自分で自分の方法を見つけなければなりません。それでも、どなたかの参考になることを期待して、このメモを書きました。
私は、聖人でも救済者でもありません。目が覚めただけの1人の科学者・実業家です。大脳生理学的、あるいは、機械知能工学的に、私の脳に起きた現象を解明して、より多くの人に適用できるようにすることを自らの使命としていますが、道は険しく、ゴールは遥か遠くにあります。なぜなら、科学的な研究活動には多額の資金が必要で、一方で、全く悪行を積まずに、純粋な対価としてお金を得るのはとても難しいからです。しかし、いつか、もしかすると私ではない誰かによって、成し遂げられることでしょう。誰もが、簡単に、「悟りを開く」アプリケーションを脳に「インストール」できる時代が来るのです。100年後か200年後かにはきっと。ですが、それまで、自らの悟りは自ら開かなければならないのです。
瞑想と断食をして悟られたということですが、どのような瞑想法をされたのですか?
彼岸に達せられたということですが、真理をしることによって、迷ったり悩んだりすることはなくなったのでしょうか?
悟ったということは、すべての執着がそげ落ちてしまうと聞いています。
悟りを開いてから、実生活で良くなったこととかありますか?
たとえば、人間関係や仕事が楽でうまくいったとか。
心の平安を得られたとのことですが、死の恐怖がなくなったとか、
何かありますか?
悟りを開かれたとの事ですが、実生活に良い結果はありますか?
たとえば仕事や人間関係がうまく楽にできるとか。死の恐怖がなくなったとか。毎日が爽快だとか。(心の平安を得られたわけですから)